新生の灯


     

「ねぇ、藤姫……」
「はい? 何でしょう、あかねお姉様」
「……ううん……やっぱりいい……」
 あかねは小さくため息をつくと、夏の庭に目を移した。
 藤姫が、まだ自分が《龍神の神子》であった時に整えてくれた庭は、鮮やかな花が咲き乱れ、目に美しく心を慰めてくれる。だが、どうしても……穏やかな気持ちにはなれない。
「あかねお姉様? どうなされたのです? お元気がありませんが……何かおありになったのですか?」
「ううん……別に何があったってわけじゃないんだけど……」
 鬼との決戦から一月半。あかね──元宮あかねは今、藤姫の館で暮らしている。藤姫の父である左大臣家の養女として、この世界で暮らしていく足掛かりもできた。そうでなくともあかねはこの世界……京を救った救世主。ここでの生活に不自由するべくもない。
 ──でも……なぁ……。
 本来であれば、あかねは女子高生としてごく普通の生活を送っていたはずだ。それが狂ったのは数カ月前。入学した高校で奇妙な井戸の噂を聞き、好奇心でそれを見に行った際に、この世界に召還されたのだ。
 それからの日々は目まぐるしいものだった。《龍神の神子》として、この世界を救うために怨霊や四神、そして鬼の一族と戦う生活。
 だが、それも今ではしっかりとけりがついた。本当であればあかねは自分の世界に帰り、元の女子高生の生活に戻るはずだったのだ。それを引き止めたのは……一人の人間の自分に向けられる想い。
『残ってほしい』と彼は言った。その彼の想いをあかねは受け入れた。彼のために、彼と一緒にいたいがために、この世界に残ったのだ。
 なのに……。
 ──ずっと……姿を見てない……。
 もともと、積極的な方でないのは解っている。どちらかといえば、臆病な方だと言うことは。だけど、鬼と戦っていた頃はそれでも、よくあかねの元を訪ねて来てくれた……。
 ──逃げてる……わけじゃないよね。だって、もう逃げないって約束してくれたんだもの。
「あかねお姉様……」
 藤姫の心配そうな声に、あかねはハッとした。見れば藤姫が気づかわしそうに自分を見つめている。
 ──あ……やば……。
 自分より六つも年下のこの少女が、自分のために色々と心を配ってくれているのはあかねにも勿論解っていた。自分が《龍神の神子》であったときからそうだった。この世界に馴染めるようにと気を使い、励ましてくれたのだ。
 ──また……藤姫に心配かけちゃう。
 それでなくても鬼と戦っている間は、心配をかけ通しだったというのに、戦いが終わった後でまで心配させてしまうなんて、申し訳なさ過ぎる。
「あ……ごめんね、藤姫。ホントに何でもないんだ」
「お姉様……」
 にっこりと笑って言うが、藤姫は相変らず心配そうにあかねを見つめている。無理をしていることなど、藤姫にはお見通しなのだろう。
 ──まいった……なぁ……。
 だが、何となく言いづらい。自分が落ち込んでいる理由。それが、一人の男性が姿を見せてくれないせいだ、とは。
 ──……話変えよう。
「……ねぇ、藤姫。何かして遊ぼうか? えっと……この前鷹道さんが、綺麗な絵巻を持って来てくれたよね。あれ、見よ」
「え……あ、はい。わかりましたわ」
 藤姫が控えている女房に指示をする。しばらく待つと、漆塗りの箱に入れられた巻き物が三巻、二人の前に運ばれて来た。
「あ……ありがとう」
 あかねが言えば、女房は微かに微笑んで下がって行く。あかねは、どうもまだ《姫君》の生活には慣れることはできないな、と思った。この女房の存在もそうだ。《龍神の神子》であった時は、あかねについていたのは藤姫だけだったが、左大臣の養女となり、藤姫に姉にあたるようになってからは、数人の女房に囲まれて暮らすようになっていた。左大臣という身分の高い人間の娘になったのなら当然ということで。
 あかねにしてみたら、堅苦しくてしょうがないが、これもこの世界の常識であるなら仕方がない。郷に入れは郷に従え、だ。
「あかねお姉様、御覧にならないのですか?」
 言われて気がつけば、藤姫は巻き物を広げていた。あかねは慌てて巻き物を覗き込む。
「ごめんごめん。見る見る」
 床に広げられているのは、日本史の教科書や博物館の中でしか見られないような絵巻だ。勿論あかねが元いた世界のそれに比べたら、色も鮮やかで美しい。
 ──私なんかには、勿体無いってやつよね。
 こういうものに興味がある人間だったら、きっともっと感動するだろうに。
 ──でも、すごく綺麗。
「綺麗だね、藤姫」
「ええ……そうですわね」
 ──?
 同意を返した藤姫の口調が、案じるように曇っている。あかねは絵巻から顔を上げた。「藤姫?」
「申し訳ありません、あかねお姉様……私……」
「ちょ……どうしたの?」
「お姉様がお悩みでいらっしゃるのに……私……何もできなくて……」
「藤姫……」
「お父様からも……言われているのです。お姉様は元々この世界の方ではないのだから、戸惑われることも多いだろう。できるだけ力になって差し上げなさい、と。でも……私……」
 大きな瞳に涙を浮かべて藤姫は言う。あかねは慌てて両手を振った。
「な……何言ってるの? 藤姫は私にすごくよくしてくれてるよ! 《龍神の神子》だった時も、今も! だからそんなこと言わないで!」
「あかねお姉様……」
「それに……これは私の問題なの。藤姫が悪いわけじゃあないよ。私が……」
 あかねはそこで口をつぐんだ。これから先は……やっぱり言えない。
 だが、言えないあかねの代わりに、藤姫が口を開いた。
「永泉様……のことですわね」
 永泉──先帝の皇子であり、現帝の異母弟。だが現在は僧籍を得て仁和寺で修行をしている僧侶だ。そして……あかねがここに残ることになった一番の理由。
「ふ……藤姫?」
 ──気が付かれていた?
 あかねが驚いて藤姫を見れば、藤姫はにっこりと笑った。
「お姉様は正直な方ですもの。お考えになっていらっしゃることなど、すぐに解りますわ。このところお元気がないのも、永泉様がお見えにならないせいでしょう?」
 あかねはがっくりと肩を落とした。こんな年下の少女に見抜かれていたなんて。
「……藤姫……」
「それに、お姉様と永泉様のお心が通じあっていらっしゃることは、鬼との戦いの時にはっきりと解りましたもの。そして……お姉様が永泉様のためにここにお残りになったことも」
 無邪気な風で言う藤姫の言葉に、あかねは思わず真っ赤になってしまった。藤姫の言うことは正しいかもしれないが、面と向かって言われるとなんだかすごく恥ずかしい。
「ふ……藤姫……あんまりからかわないでよ……」
「あら、からかってなどおりませんわ。本当のことでございましょう?」
「それはそうかもしれないけど……」
 ──……やっぱりからかわれているような気分……。
「でも……」
 そこで藤姫の口調が、先ほどのように曇った。笑顔が悲しそうな顔に取って変わる。
「藤姫?」
「私……お姉様のお役に立てなくて……お父様にいろいろとお話を伺っているのですが……」
「藤姫……」
 自分のためにここまで心を砕いてくれている藤姫に、あかねは凄く申し訳なく感じた。こんなによくしてくれているのに、あかねは自分の心を打ち明けようとはしなかったのだ。いつだって藤姫は、あかねのことを考えてくれているのに。
「……ごめんね、藤姫」
「あかねお姉様?」
「ありがと。私のためにそんなに考えてくれて。私、しっかりしなきゃ駄目だよね。ここに残る、って決めたのは自分なんだもの。永泉さんだって、色々と忙しいことがあるんだろうし……《八葉》の役目を優先していた頃とは違うんだもんね」
「お姉様……でも……」
 藤姫の顔がますます曇る。気掛かりなことがあるとでも言うように。
 ──藤姫?
「この前……お父様に聞きましたの。帝は永泉様に還俗をおすすめになっているらしいのですが……」
「ゲンゾク?」
 聞き慣れない言葉に尋ねれば、藤姫は嫌な顔もせずに教えてくれる。
「はい。僧侶が僧籍を離れ、俗人に戻ることをそう言うのです」
「へぇ……そういうのがあるの……って、え? じゃ永泉さんはお坊さんを辞めるの?」
「いえ、それは永泉様がお決めになることですわ。でも……帝も永泉様とお姉様の事をお聞きになったらしく、永泉様に還俗をおすすめになったそうなのです」
「ふーん……そうなの……」
 あかねは首を傾げながら、それでも藤姫の話に相槌をうった。そんなあかねの様子に、藤姫は小さく苦笑をする。
「……あかねお姉様……お姉様にも関係のあることですのよ」
「え? 私にも?」
 ──なんで?
 きょとん、と藤姫を見返せば、藤姫は尚も微笑みながら言った。
「お姉様……永泉様が僧侶のままでいらっしゃったら、お姉様と永泉様はお幸せにはなれないではありませんか。僧侶は、妻をめとることは許されておりませんもの」
 ──妻……って奥さんのこと?
 いきなり現実的なことを言われ、あかねは真っ赤になってしまう。いくら何でも話が早すぎる気が……。
「ふ……藤姫……」
「あら? どうなされたのですか? お顔が真っ赤ですわよ、お姉様」
 ──真っ赤……って……。
 真っ赤にもなる。思いも寄らないことを言われたのだから。
「ですから……帝は永泉様に還俗をおすすめになったのです。異母弟君であらせられる永泉様のことを、帝もそれはお気になさっているようですから。幸せになってほしい、と。そのための助力は惜しまない、と。でも……」
「でも?」
「永泉様は……お返事をなさらなかったそうなのです」
「……………………」
 それは……どういうことなのだ? 永泉はあかねのことを、そこまで真剣に想ってくれてはいないということなのか?
「あ……あかねお姉様……」
 黙り込み、俯いてしまったあかねの様子に、藤姫が慌てたように声をかける。何かまずいことを言ってしまったと気づいたのだろう。なんとか気を取り直そうと、明るい口調で言葉を続けた。
「でも、きっと永泉様には何かお考えがあるに違いありませんわ。いろいろと、お身の回りのこととか……」
「藤姫」
「お姉様?」
「私、ちょっと永泉さんのところまで行ってくる」
 そう、こんなところでうじうじ考えている時間があるなら、直接会って話をした方がいい。こんなに長い間姿を見せない理由。そして、今藤姫が言った還俗の話も。
「お姉様! いけませんわ!」
 すっくと立ち上がったあかねを引き止めるように藤姫が手を伸ばす。
「お姉様はもう、《龍神の神子》であったときとは違うのです! お父様の……左大臣家の姫君なのです! 簡単に出歩かれることは……!」
 そんなことは解っている。だからずっと、あかねは待っていたのだ。永泉が姿を見せてくれるのを。だが、このままでは埒があかない。いつ来てくれるか解らないのに、大人しく待ってなんかいられない!
「大丈夫! 永泉さんと話をしたら、すぐに戻ってくるから!」
 言うとあかねは、引き止める藤姫の言葉を振り切って走り出した──。

     2

「えっと……」
 あかねは今、東寺に来ている。本来永泉は仁和寺に属しているのだが、内裏からは遠い洛西にあり、鬼との戦いの間、永泉はこの寺を修行の場としていた。戦いが終わり一月半を経ているが、様々な後始末のために、まだ永泉は仁和寺には戻らずここにいるはずなのだが──。
 ──勢いで来ちゃったけど……どうしようかな……。
 あかねは寺の境内に立ち、正直困っていた。境内は広く、どこに行けば永泉に会えるのか見当もつかない。
 ──うーん……どうしよう……。
「おや、そこにいるのは神子ではないかな?」
 穏やかな老人の声に振り返れば、法衣をまとった老僧が立っていた。以前、鬼との戦いの時に助言をくれ、お世話になったことのある僧だ。
「あ……こんにちわ」
「おお、お元気そうじゃな。鬼との戦いの疲れは癒えたようじゃの」
「あ、はい。おかげさまでもう元気です」
「それはよかった。しかして今日はいかがされたのかな? 何か、御用でも?」
「あ……その……」
 あかねは口籠る。だが、この老僧に頼めば永泉のところまで連れていってくれるかもしれない。
「私……永泉さんに会いに来たんです。会わせてもらえますか?」
 言えば老僧はにこやかに笑った。
「おお、永泉じゃな。先程内裏から戻ってきたはずじゃ。しばし待たれよ。呼んで来てしんぜよう」
「あ……」
 『私が行っても……』あかねはそう言いかけたが、老僧はそのまま歩いて行ってしまった。考えてみたら、寺という場所の奥に、普通の人間、それも女性が入り込むのは良くないことなのかもしれない。あかねはそう思うと大人しく待っていることにした。
 ──もう……すっかり夏だなぁ……。
 夏の光が境内に立つあかねに容赦なく降り注ぐ。あかねはそのきつい日ざしを避けようと、境内の大木の影に入った。幹に寄り掛かり、ふっと息をつく。
 ──なんだか……月日が過ぎるのって、早いよね……。
 ここまで来るのには色々あった。今でもあかねは、鬼と戦ったことが夢だったような気がする時がある。自分が怨霊を封印したり、四神を解放したりなんて事が本当にできたのだろうか、と。
 だが、今、自分がここにいるということが、あれが夢などではなかったと語ってくれている。本当にあったことなのだ、と。それと同時にこの胸の中にある想いも……。
「神子……」
 声をかけられて、あかねはハッとした。気が付けば側に人が立っている。
「……あ……」
 立っているのは少女のようにはかなげな風情の少年。面ざしも美しいが繊細で、まるで微風に吹かれただけで倒れてしまいそうな印象だ。
「永泉さん……」
 あかねは慌てて木の幹から身体を離した。改めて少年──永泉に向かい合う。
「……急に会いに来てごめんなさい」
「いえ……こちらこそずっと神子の元に伺わず……」
 言いながら永泉は顔を伏せる。そんな彼の仕種があかねには少しもどかしく感じた。どうしてこの人はこんなに遠慮がちなのだろう。自分に対してまで。
「ね、永泉さん。どうして……全然姿を見せてくれないの?」
 はっきりと言った方がいいだろう。そう思ったあかねは、言葉を濁すことなく永泉に尋ねた。
「……………………」
「責めてるわけじゃないの。でも……私、ずっと待ってたんだよ」
「神子……」
「忙しいんだろうな、って思ってた。ずっと……《八葉》の役目をしてたから、その間の整理とかあるんだろうな、って。でも……」
「神子……私は……」
「楽な方に考えたくなかった……だから会いに来たの。ね、永泉さん。どうして会いに来てくれなかったの? 私に会いたくない理由があったの?」
「そんな! 神子! 違います! 会いたくないなんて……!」
 やっと永泉は顔を上げた。綺麗な瞳を見開いてあかねを見つめる。吸い込まれそうなほど、純粋な、瞳。
 だが、すぐに永泉はその瞳を伏せた。
 ──永泉さん……。
 どうして真直ぐ見てくれないのだろう。あの時……鬼との決戦の時は、ちゃんと立ち向かってくれたのに。
 と、永泉が口を開いた。
「実は……兄から……帝から還俗をすすめられました」
「……うん……藤姫から聞いた……」
「……そうですか……」
 それきり永泉は言葉を切る。あかねも何も言えなくて、一緒に黙り込んだ。
 そんな二人の間を、夏の涼風が涼やかに通り過ぎて行く。さわさわと風が木の葉を揺らすだけの、どこか気まずい沈黙を破ったのは、やっぱりあかねの方だった。
「永泉さん、お坊さんを辞めるの、迷ってるってこと……だよね」
 永泉はハッとした。あかねを見つめ、小さく頷く。
「はい……。あなたのおっしゃる通りです……。私は迷っているのです。私が逃げて来た……あの世界に戻ることに」
「永泉さん……」
「鬼との戦いを終えた後、私は還俗をして臣籍に下り、兄を支えて行きたい。そう思っておりました。でも……」
「でも?」
 そこでまたしばらくの間、永泉は黙り込む。だがそれは、言い表わす言葉を探しているような沈黙で、あかねは辛抱強く次の言葉を待つことにした。数分間の沈黙。その後で永泉は口を開いた。
「……私は……鬼からあなたを守りたかった。そして、少しはお役にたてたのではないかと思っております。けれど、内裏という名の鬼から、あなたを守りきる自信がないのです……」
 ──内裏と言う名の鬼?
 それはどういうことなのだろう? 内裏に鬼がいるのだろうか?
「永泉さん……?」
「神子、あなたはおっしゃいました。私が出家をしたのは、兄が傷付くのが嫌だったのではなく、自分が傷付きたくなかったからではないか、と。たしかに私は今でも自分が傷付くのが恐い。けれどあなたのおかげで、その痛みを強さに変えるということを知ることができました。だからこそ、兄の支えになりたい、とも思ったのです」
 ──永泉さん……。
 あかねには、永泉の言葉が信じられた。鬼と対決した時、鬼の首領を前に彼は言い切ったのだ。『もう逃げない』と。あの緊迫した状況の中、きっぱりとそう言い切った永泉の姿が、あかねにはすごく嬉しく思えたのだから。でも、ならば何故迷っているのだろう。何が永泉を迷わせているのだ?
「神子、私はあなたが好きです」
 ──え……えっ……!
 唐突すぎるの永泉の言葉に、あかね驚いて真っ赤になってしまった。それは、前にも聞いた告白。だが、あまに突然すぎて、焦ってしまうのは無理もない。
「ずっと……あなたの側にいて、あなたを見つめていたい。そんな身勝手な私の願いをあなたは受け入れてくださった。私はとても嬉しかったのです。あなたがここに残ると言ってくださって……」
「え……永泉さん……」
「けれど……私はあなたの優しさに甘えて、どんどんと欲張りになってしまう……。あなたの側にいて、あなたを見つめていられれば、それが私の幸福だと思っていたのに……それだけでは足りずに、あなたの全てを得てしまいたくなるのです……」
 ──そ……それって……。
 永泉の言葉の意味が解ったあかねは、ますます驚いてしまった。この、少女のような風情の永泉が、こんなことを言い出すなんて思わなかったのだ。
「私はまだ今は僧籍の身です。戒律に縛られております。けれど……この枷が外れてしまえば、私はこの想いを止める術をなくしてしまう……」
「で……でも……」
 あかねは、これから自分の言う言葉が、意味的には……永泉を受け入れることなのだと理解しながら、それでも口を開いた。
「そ……それは……自然な心の動きじゃ……ないですか? す……好きだったら……当然の事じゃ……ないのかな」
 赤くなりながらそう言えば、永泉は驚いたように瞳を見開いてあかねを見た。あかねは思わず俯いてしまう。
 ──そ……そんな驚いた顔……しなくても……。
「……神子……あなたは……」
 しかし永泉は微かに首を振った。
 ──永泉さん?
「私は……先程言いました。内裏と言う鬼から、あなたを守る自信がない、と」
「永泉さん?」
「私は……幸せな夢に酔っていて、忘れていたのです。私が身を置いていた世界がいったいどういうものだったのか。神子、あなたは御存じないでしょう。あの世界は……権力、名声、地位……それらに捕われた鬼たちが、互いを食らい合う世界なのです」
 ──永泉さん……。
 永泉の話を聞きながら、あかねは思い出していた。彼の境遇。親王であるが故に、幼い頃から周囲に利用されてきたこと。そして、出家をしたのも、兄との東宮争いを避けての事だったと。
 だから、きっと永泉の言葉は正しいのだろう。あかねは藤姫に聞きかじった程度でしかその世界を知らないのだから。だけど……だけど!
「それに神子、あなたは養女とはいえ、左大臣家の姫君になられました。あなたと私の結びつきを快く思わないものもおりましょう。兄には……まだ皇子がおりません。あなたと私を利用しようと思うものが出て来ても……おかしくない……」
 そう言う永泉の言葉に、あかねはなんだかたまらなくなってしまった。永泉があかねのことを考えてくれているのは解る。だけど、もっと別な考え方はできないのだろうか。これでは、自分がここに残った意味が……ない。
 そう思った時、あかねは言ってしまっていた。
「……じゃあ……永泉さんは、私が残らなかった方がいいの……?」
「神子! 私はそんな……」
「だって、あなたの話を聞いてたら、そうとしか思えない。私は、あなたの側にいたいから……一緒にいたいから残ったの。あなたをそんなに苦しめるためじゃない!」
 あかねは大きくかぶりを振って叫んだ。
「私は、あなたの言う内裏のこととかって良く解らない。ただあなたの側にいたい。一緒にいたい。それだけじゃ駄目なの?」
「神子……」
 目の奥が熱くなってくる。涙が零れそうだ。あかねは唇を噛み締めて永泉を見つめた。何か言ってほしい。これじゃあここに残った自分が。この一月半、藤姫の所で永泉を待っていた自分が……情けなさ過ぎる。
「神子……」
 しかし永泉はそう言ったきり、言葉を継ごうとはしなかった。あかねは込み上げて来た涙を、乱暴に掌で拭う。そして、言った。
「……もう……いい……」
「神子?」
「私、帰ります」
「あ……では、屋敷まで……」
 藤姫の館まで送ると言う永泉に、あかねは首を振った。
「藤姫の館に帰るんじゃありません。私……自分の世界に帰ります」
「み、神子!」
「だって……もう私がここにいる意味……ないんですもの」
 あかねが残ったのは、永泉のため。だがその本人に拒まれたなら、ここにいる意味はない。
「だから……帰ります」
 もうあかねは《龍神の神子》ではない。自分の世界に帰る入り口を開けるかどうか解らなかったが、きっと藤姫が力になってくれるだろう。
「今までありがとう……さよなら」
 あかねは言うと、永泉に背を向けて走り出した。もうここにはいたくなかった。情けなくて、悲しくて、自分でももうどうしようもなくて──。
「神子!」
 だが次の瞬間、あかねは思いもよらぬ強い力に引き止められた。振り向けば、永泉が自分の手を掴んでいる。
「あ……し……失礼を致しました……」
 永泉は慌ててあかねの手を離す。謝らなくてもいいのに、と思いながら、あかねは今掴まれた手を無意識にもう一方の手で掴んだ。引き止めてくれた……と思っていいのだろうか。
「でも……このままあなたを行かせたくはなくて……」
 ──永泉さん……。
 あかねはもう一度だけ、と思いながら永泉に向き直った。もう一度だけ、自分の想いをぶつけてみよう。それで駄目だったら本当に帰ればいい。永泉は自分を引き止めてくれたのだ。まだ……チャンスはあるかもしれない。
「……ね、永泉さん。あなたが深泥ヶ池に誘ってくれた時の事……覚えてる?」
「神子?」
「あの時あなた、叶わぬ恋をはかなんで、池に身を投げたお姫様の事、話してくれたよね」
「は……はい」
「あの時私、悲恋って憧れちゃうけど、でもそれでも幸せになりたいって……言ったよね。覚えてるかな?」
「はい……覚えております」
「周囲から祝福されなくても、その人がいれば幸福になれるはず、って気持ち……私、変わってないよ」
「……………………」
「好きな人がいてくれれば……その人とならば、どんなことでも耐えられるし、頑張れる。私、そう思うの。そう思ったからこそ、私はここに残ったの」
「神子……」
「私ね、この一月半、藤姫にいろいろ教えてもらったの。まだ、カッコは神子の時のままだけど……」
 あかねはまだ、《龍神の神子》として鬼と戦った時と同じ、学校の制服に紫の水干を着た姿でいる。本当は藤姫のようにちゃんとした装束をまとわねばならないのだろうが、夏の暑い気候に姫君の姿は慣れないと辛い。これから先は長いのだから、焦る必要はない、という藤姫の配慮だった。
「歌は……たしなみだから詠めるようにならないと、って言われて、少しづつ勉強してるの。永泉さんは歌の名手でしょ? それに恥ずかしいようじゃいけない、って。それに、琴も少しだけど勉強してる。この前友雅さんが来て『私の琵琶と合わせるかい?』なんて冗談を言って行ったのよ」
「神子……」
「私、あなたと一緒なら頑張れる。でも……あなたはそうじゃないの……?」
 あかねにとって、それは最後の問いかけだった。この言葉に答えてくれなかったら、本当に帰ろう。自分の世界へ。そして……戻るのだ。ただの女子高生の《元宮あかね》に。
「神子……あなたという方は……」
 と、目の前の永泉が、なんだか泣きそうな顔で微笑んだ。それから、遠慮がちに言う。
「神子……触れてもよろしいでしょうか?」
 ──え?
「あなたに……触れてもよろしいでしょうか……?」
 永泉の言いたいことが良く解らず、けれどもあかねは頷いた。同時にふわりと寺特有の香の香りを強く感じ、気が付いた時には、あかねは永泉に抱き締められていた。
 ──え……永泉さん……?
 突然の抱擁に、あかねは永泉の腕の中で焦ってしまう。いつも永泉はあかねにさえ距離を置き、こんな近くで触れあうことなどなかったのだ。
「法衣をまとったままの私がこのようなことをするのは罪なのでしょう。けれど……私にはもう、どうしても止めることができない……」
「永泉さん……」
 あかねは軽く永泉の肩にもたれかかった。少女のようにか弱く見えても、やはりあかねよりは広い肩に。
「あなたは……本当に強い方ですね。私の弱さを気づかせてくれる……。そして、その弱さを強さに変えてくれる……。あなたは本当に、私の希望の光です」
 それから永泉はあかねを離した。恥じらうように頬を染め、しかしあかねからは目をそらさずに言う。
「ありがとうございます。神子」
「永泉さん?」
「あなたのおかげで心が決まりました。そろそろお屋敷に戻られた方がよろしいのではないですか? お送りいたしましょう」
「あ……は……はい」
 どこか心が晴れたような永泉の美しい微笑みに、一瞬見とれながらも、あかねは小さく頷いた……。

     3

 数日後──。
「お姉様! あかねお姉様!」
 あかねのところに藤姫が慌てた風で飛び込んできた。夏の暑さ疲れでうとうとしていたあかねは、驚いて飛び起きる。
「ど……どうしたの、藤姫」
「え……永泉様がお見えに……」
「永泉さんが?」
「お……お通ししても……よろしいでしょうか?」
「あ、うん、お願い」
 来た時と同じように、慌てて藤姫が出て行く。あかねは首を傾げてしまった。あの藤姫の慌てようは何なのだろう? 永泉がここへ来ることなど、鬼と戦っていた時には頻繁にあったことではないか。
 ──どうかしたのかな?
 と、足音が聞こえてきた。あかねは髪の毛をひっぱって直す。うとうととしていた間に、寝癖がついたような気がしたから。何か顔を映せるようなものがないかと周囲を見回した時、声がした。
「こんにちわ。神子」
「永泉さん、こんにち……」
 あかねの声が途切れる。何故なら──。
「まだ……慣れていないので……」
 そう言いながら照れたように笑う永泉は、あかねが初めて見る姿だった。いつもまとっていた法衣姿ではなく、束帯を着込んだ姿……。
「おかしい……でしょうか?」
 不安そうな永泉に、あかねは慌てて首を振った。そして偽りのない気持で言う。
「いいえ……とっても素敵です」
「あ……ありがとうございます」
 お互いが赤くなりながら言う二人の姿に、様子を見にきた藤姫が、にっこりと微笑んで下がっていったが、勿論二人ともそれに気づきはしなかった。
「永泉さん、その姿ってことは、還俗っていうのをしたんですか?」
「はい、兄……帝から新しい名前を頂いて参りました。これからは臣下として、帝を支えて行きたいと思います」
 その永泉の表情に迷いはない。あかねにはそれが嬉しかった。
「よかったです。頑張ってくださいね。永泉さんなら、きっとお兄さんの力になれます」
「ありがとうございます。あなたにそう言っていただけるのが、私の一番の力になります。そ……それと……神子」
 ──?
 迷っているような、それでいて照れているような永泉の様子に、あかねは首を傾げる。
「永泉さん?」
「あの……神子。その名前は、私が僧であったときの名です。もしよろしければ……あなたに新しい名前で呼んでいただきたいのです」
 ──あ、そうか。
 さっき永泉は『新しい名前をもらった』と言っていた。臣下に下ったために、そういうことなったのだろう。
「私は、あなたとともにこの新しい名前で生きたい。今までの私を基にした、新しい私として。ですから……」
 それは、今まで帝である兄と自分とを比べることで生きてきた永泉が、自分というものを確立したということ。そして、進むべき道を見付けたということ。
 ──でも……だったら。
 あかねはちょっと悪戯っぽく笑った。
「ね、永泉さん、だったら私のことも、名前で呼んでください」
「神子?」
「だって、私はもう《龍神の神子》じゃないんですもの。私の事も《あかね》って呼んでください。そうしてくれれば、私も永泉さんを新しい名前で呼ばせてもらいます」
「でも……神子」
 いつまでも《神子》のままでは嫌だ。永泉が新しい道を見付けたように、あかねだって新しい道を歩いているのだ。
「《神子》じゃなくて、《あかね》です」
 言えば永泉は戸惑ったような顔をする。だが……口を開いた。
「あ……かね……殿」
「もう一度、私を見て、言ってください」
「神子……」
「あかね、です」
 くり返せば永泉は、心を決めたようにあかねを見つめた。そして、言う。
「あかね……殿」
「はい」
 好きな人の口から自分の名前がこぼれる。それがこんなに嬉しい事だったなんて、あかねは初めて知った気がした。くすぐったいけれど……とても暖かくて優しい気持になれる……。
「じゃ、永泉さん、あなたの新しい名前を教えてくれますか?」
 あかねが言うと永泉は、頬を染めながら小さく囁いた。
「はい、み……あかね殿、私の名は──」
 囁かれた名前。それは、あかねの名と一緒に、二人の未来を示すもの。二人の行く手を照らす希望の灯──。
 あかねは微笑んだ。聞き慣れない名前も、きっとすぐに慣れるだろう。何故なら……彼はあかねの大好きな人なのだから。心の中で、言葉にして、これから何回も繰り返されるのだから。
「あかね……殿?」
 あかねは軽く身を乗り出した。新しい名前を得た、自分の大好きな人の耳に唇を寄せる。そして……。
「──さん」
 初めて呼ぶ、大好きな人の名を、あかねは優しく囁いた──。

                                 「新生の灯」了


コレは……何年前になるだろう……一年……じゃない、それ以上前だ。
最遊にハマりたての時期になるから……二年近く前になりますか、
当時チャットによくお伺いをさせていただいたゲームサイト『百花繚乱』様の
『永泉様お誕生日企画』に参加させていただいた物です。
いや……やつかさんのイチオシは友雅様だったんですけどね(笑)とある
サークルさんの御本に友雅×あかねでゲストなんぞもしてたりするんですが(爆)
ちなみに「2」はやってません。どーも画像を見たらなんだかやる気がしなくって(←ヲイ)
しっかし……恥ずかしいなぁ……うん……。

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